Think like a man of action, act like a man of thought.
とはベルクソンの言葉。
(英語ではなぜ仏語と順番が逆になるのだろう...)
思考停止せずにスタンスをとれ、スタンスをとってもそれを疑え、と。
トーゴにいたときに、働いていたCILSIDAというNGOではファンドレイズとか翻訳とか啓発活動とかいろいろなことをやったのだけど、印象に残っている活動のひとつが、コミュニティ内の家を一軒一軒訪ねて、若くして妊娠した女の子たちの生活環境についての調査を行ったこと。
家族構成はもちろんのこと、その女の子の職業は何かとか、家計を支えているのは誰かとか、妊娠中の検診はしているか、しているとしたらどこに(公営のヘルスセンターか、私営のお医者さんか、伝統医か、とか)行っているか、とかを、一軒一軒インタビューして回った。総勢30人くらいのスタッフで2週間ぐらいかかった。家庭訪問後は、そのデータをもとにレポートを作った。
その前にいたNGOの活動がひどかったから(私腹を肥やすためのスケープゴート以外の何ものでもなかった)、トーゴのNGOでもこんなちゃんとしたことやってるんだ!しかも、感覚じゃなくちゃんとデータに基づいた活動しようとしてる!ととても感動した。あと、本当に炎天下の中何日間もひたすら町の中を歩き回ったつらい記憶が"今ではいい思い出"ってやつになってる。
インタビューの内容は数字にできることだけじゃなくて、時には人生相談みたいなことになって何時間も話し込んだりもした。
中には、14歳ぐらいの少年少女がやっちゃって、子どもができちゃって、親はガン切れで、どういういきさつか知らないけど刑務所沙汰になりそうで、そもそもその少年少女が家から勘当されそうなのに赤ちゃん産んだら育てるなんてもっての外、なんていう、(刑務所のくだり以外は)日本にも普通に転がっていそうな話があったり。
他にも婚前交渉がらみのトラブルが多かった。その人の宗教にもよるけど、婚前交渉は社会的にあまりいいこととはされていないらしく(そこに社会通念と現実とのおおきな乖離がある)、そのままデキ婚になればめでたしめでたしだけど、妊娠させた男の方が責任を取らずに逃げちゃうって話もたくさんあった。それで母親の方の家族で育てているけど、学校の給食のお金がないとかもざらにあった。
トーゴでは国によるセーフティネットは(皆無ではないにしろ)整っていないから、こういう状況に対してはCILSIDAのような数多のNGOがカバーしている部分が大きい。というか、少なくとも、そういうことがおそらくNGOには期待されている。
この度、CILSIDAのDirecterのAntoine(アントワン)から連絡が来て、この若いお母さんたちのための生活支援のプロジェクトをやりたいと。
GlobalGivingっていうプログラムがあって、世銀の元役員の人たち(ひとりは日本人)が立ち上げたらしいんだけど、草の根活動の現場と世界の善良なる市民をつなげるための仕組みということらしく、サイト上にあるありとあらゆるプロジェクトから、自分の関心に合うものを選んで、好きな額を寄付して、進捗状況のアップデートを受け取れるらしい。
そのGlobalGivingに、CILSIDAが若い母親サポートのプロジェクトで応募した。9月30日までにそのサイト上で$4000のファンドレイズをすることができれば、その後もGlobalGivingのサイトに掲載される権利を得られて、プロジェクト運営に必要なさらなる寄付を募れるということらしい。
ということで、Rena, 先進国の友達に寄付を呼びかけてくれ、と。
うーん。と、困ってしまった。
基本的に、私は、「寄付」ということに対して極度に懐疑的なのです。
最近邦訳が出たらしいDambisa Moyoの"Dead Aid"でも、援助は依存体質を助長させるだけで本当に彼らの成長にはつながらないものが多い、むしろ成長が疎外されている、的なことを言っている。
だけど、現場にいる彼らにはそんなこと言えないわけです。
はるか遠くの人間がどんな理屈をこねていようと、現場は今この瞬間にもそこにあって、その体質そのものを変えることをしているという自負がない限り、その体質の内部におかれている人に批判なんて言えないわけです。たぶん、理解してもらえないだろうという諦めも多分にありつつ。
私は現場に寄り添った人になりたい。
だから、現場のわりきれなさ、汚さから目をそらして、キレイに整えられた理論を言っている人にはなりたくない。現場のわりきれなさや汚さを直視しつつ、かといってそこに迎合することもなく、立ち向かっていける人になりたい。
それが、"agir en homme de pensée et penser en homme d'ation"の意味だと思う。
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Saturday, September 4, 2010
Friday, August 14, 2009
光と闇
The world isn't split into good people and bad people. We've all got both light and dark inside of us. What matters is the part we choose to act on.
この数週間で図らずも立て続けに先輩たちの激ポジな話を聞いて、前向きに生きるパワーが体にも心にも満ち溢れてきた。
この数週間で図らずも立て続けに先輩たちの激ポジな話を聞いて、前向きに生きるパワーが体にも心にも満ち溢れてきた。
Wednesday, July 22, 2009
人の気持ちがわかる脳
――利己性・利他性の脳科学
村井俊哉著、ちくま新書、2009年
もはや「ほんとうのじぶん」なんてものがあることを信じられなくて、この点についてはフランクルにやや賛成しかねるわたしでも、感覚的にはやっぱり、人為的に(どこまでが人為的かというのも厳密に考えたら難しい問題かもしれないけれど)人の精神的な部分に変化を加えることに、抵抗感がある。マインドコントロール、とも通じるところを感じるからかしら?
なんて言いつつ、明日までの英語のエッセイ書かなきゃいけないから徹夜だーとか言って、BFが大事そうに冷蔵庫にしまっていたリポDをこっそり取り出してぐびぐびやっているわたしがここにいるわけだけど。「教育もマインドコントロールじゃないの?」みたいな問題と同じく、どこまでがOKでどこまでが危険なのかっていう線引きの問題なんだろうけど、その線の位置が時代とともにどんどん動いていって、最終的にはなんでもOKになっちゃうんじゃないの?みたいな漠然とした不安が、あるのかもしれない。あえて言葉にするとすれば。
それにしても、完全文系のわたしにとっては脳科学をはじめとする理系の考え方ってとても新鮮で魅力的でわくわくすると同時に、日々悶々と考えている人の心や他者との関係までをもこうも明快に客観的・科学的に説明されてしまうと、哲学とか人文系の学問ってやっぱりもうダメなのかしら、と思ってしまう。
「人の心をすべて化学物質や化学反応に還元する」ことに異議を唱える人文系の言説は、果たして「科学信奉主義」なるものに対する真の警告たりうるのか、それともただ単に人文学者がraison d'êtreを失わないための保身なのか・・・。
哲学が今後も存在意義を主張しうるとしたら、それは哲学独自の在り方ではなくて、それこそ文理を止揚(・・・とまではいかなくても、そんなかんじのsomething)した在り方によってのみ可能なのではないかしら。死生学なんて、まさにそんな要請から生まれてきたものでしょう(ただ、今学期受けた授業の内容からは、死生学ですらいろんな分野の寄せ集めにしか思えなかったけど・・・。異なる複数のディシプリンの止揚とか、相当難しいのはわかるのですが)。
とはいえ完全に打ちのめされたわけでもなくて、物足りなかった点も何点か。
ひとつめとしては、
それから、本屋さんでぱらぱらとめくっていた時に、わたしが以前読んで衝撃的感動を覚えた中沢新一の『愛と経済のロゴス』に出てくる「純粋贈与」(マルセル・モースの贈与論を発展させた、「交換」「贈与」に次ぐ第三の概念)の話を引用していたのを見て、人類学と脳科学をつなげてくれたのか!!!と感動と期待に胸を打ち震わせたから買ったと言っても過言ではないのに、ちゃんと読んでみたら中沢新一の論について真正面からは向き合っていなかった。
自分が拠って立つディシプリンの前提を絶対的なものとしてものごとを深めていくことが重要なのはもちろんだけど、それと同じくらい、その前提を疑ったりちょっと壊してみることも意味のあることなんじゃないか。それは、自分の居場所を危うくすることかもしれないし、勇気がいることには間違いない。でも、それをしないことには、前述の止揚だとか、今流行りの「学際的」「分野横断的」な営みなんてできないんじゃないか。と、哲学をほんのちょっぴりかじっただけの、学問論を語れる立場なんかには到底ない一学生は、思ってしまいます。
とはいえこの本の全体的な感想としては、わたしみたいな理系の基礎知識もないような人でも理解できるように丁寧にやさしく書いてあってよかったし、「やっぱり脳科学スゴイ」と改めて思いました。ちゃんちゃん。
村井俊哉著、ちくま新書、2009年
SSRIは、利己主義か利他主義かという軸での人間の価値観にも影響を与える可能性があると思う。つまり、SSRIによって、脳内のセロトニンの働きが高まり、結果としてαが減少するという可能性だ。αが減少することは、利他的懲罰的な志向が減少するということ、つまり多少の不公正にもあまり腹がたたず、まあいいっか、とやり過ごせるようになるということだ。(p.113)ゼミでフランクルを読んでいる時にも、「病気になっても、あるいは薬を投与しても、変わり得ない人格があるか?」(フランクル的にはあるらしい)という話をしていた矢先だったので、かなり気になったところ。
SSRIでの治療は、奇妙で不当な会社のしきたりと真正面から戦って力尽きかけていた人に対して、その人の価値観を変更することで心の危機を救うという、なんともおかしな解決を導いているのだ。(p.115)
もはや「ほんとうのじぶん」なんてものがあることを信じられなくて、この点についてはフランクルにやや賛成しかねるわたしでも、感覚的にはやっぱり、人為的に(どこまでが人為的かというのも厳密に考えたら難しい問題かもしれないけれど)人の精神的な部分に変化を加えることに、抵抗感がある。マインドコントロール、とも通じるところを感じるからかしら?
なんて言いつつ、明日までの英語のエッセイ書かなきゃいけないから徹夜だーとか言って、BFが大事そうに冷蔵庫にしまっていたリポDをこっそり取り出してぐびぐびやっているわたしがここにいるわけだけど。「教育もマインドコントロールじゃないの?」みたいな問題と同じく、どこまでがOKでどこまでが危険なのかっていう線引きの問題なんだろうけど、その線の位置が時代とともにどんどん動いていって、最終的にはなんでもOKになっちゃうんじゃないの?みたいな漠然とした不安が、あるのかもしれない。あえて言葉にするとすれば。
それにしても、完全文系のわたしにとっては脳科学をはじめとする理系の考え方ってとても新鮮で魅力的でわくわくすると同時に、日々悶々と考えている人の心や他者との関係までをもこうも明快に客観的・科学的に説明されてしまうと、哲学とか人文系の学問ってやっぱりもうダメなのかしら、と思ってしまう。
「人の心をすべて化学物質や化学反応に還元する」ことに異議を唱える人文系の言説は、果たして「科学信奉主義」なるものに対する真の警告たりうるのか、それともただ単に人文学者がraison d'êtreを失わないための保身なのか・・・。
哲学が今後も存在意義を主張しうるとしたら、それは哲学独自の在り方ではなくて、それこそ文理を止揚(・・・とまではいかなくても、そんなかんじのsomething)した在り方によってのみ可能なのではないかしら。死生学なんて、まさにそんな要請から生まれてきたものでしょう(ただ、今学期受けた授業の内容からは、死生学ですらいろんな分野の寄せ集めにしか思えなかったけど・・・。異なる複数のディシプリンの止揚とか、相当難しいのはわかるのですが)。
とはいえ完全に打ちのめされたわけでもなくて、物足りなかった点も何点か。
ひとつめとしては、
「なぜ」私たち人間は、他の人たちの喜びや苦しみによって、自らの喜びや苦しみの価値が変わるのか、というさらに深い問いを投げかける読者もいらっしゃるだろう。そのことには、この本では答えていない。(p.195)と著者も書いているように、いちばん知りたい「なぜ」に対する答えが得られなかったのがもどかしいところ。まあ新書だし仕方ないのかもしれないけど。
それから、本屋さんでぱらぱらとめくっていた時に、わたしが以前読んで衝撃的感動を覚えた中沢新一の『愛と経済のロゴス』に出てくる「純粋贈与」(マルセル・モースの贈与論を発展させた、「交換」「贈与」に次ぐ第三の概念)の話を引用していたのを見て、人類学と脳科学をつなげてくれたのか!!!と感動と期待に胸を打ち震わせたから買ったと言っても過言ではないのに、ちゃんと読んでみたら中沢新一の論について真正面からは向き合っていなかった。
中沢の「純粋贈与」は、人間ではなく霊性や神の領域に属するいとなみであると述べられており、脳科学が扱える水準を超えている。(p.131)今回に限らず、「これ以上はわれわれのディシプリンで扱う範疇を超えています」というのはしょっちゅう聞く話。専門家としては当然のことなのかもしれないけれど、わたしみたいな勉強不足のおばかさんは、これを聞くとものすごくがっくりきてしまう。仮に学問が真理の探究の営みだとしたら、こんな発言をすることは本末転倒な気がしてしまう。
中沢の話では、そのような第三の原理、純粋贈与の原理は、神のみが与えうる大地の恵みのようなものということになっている。神が現れてしまうと、さすがに脳科学では扱いが難しい。(p.144)
自分が拠って立つディシプリンの前提を絶対的なものとしてものごとを深めていくことが重要なのはもちろんだけど、それと同じくらい、その前提を疑ったりちょっと壊してみることも意味のあることなんじゃないか。それは、自分の居場所を危うくすることかもしれないし、勇気がいることには間違いない。でも、それをしないことには、前述の止揚だとか、今流行りの「学際的」「分野横断的」な営みなんてできないんじゃないか。と、哲学をほんのちょっぴりかじっただけの、学問論を語れる立場なんかには到底ない一学生は、思ってしまいます。
とはいえこの本の全体的な感想としては、わたしみたいな理系の基礎知識もないような人でも理解できるように丁寧にやさしく書いてあってよかったし、「やっぱり脳科学スゴイ」と改めて思いました。ちゃんちゃん。
Friday, June 19, 2009
愛するということ
エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991年
pp. 48-52
pp. 194-197
この本を読みながら、あるいは読み終えて、頭に浮かんだ引用。
「現代の世界のなかで、[・・・]誰も信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎ[=愛の働き、神、イエス]のあとを愚直について行きたいのです。」
―遠藤周作
「人類すべてに対する愛に溢れていても、対象が具体的になればなるほど愛することは難しくなる」みたいな(うろ覚え)
―ドストエフスキー
人に馬鹿にされても、偽善だと非難されても、論理的に破綻していると言われたとしても(誰よりも自分がそれをわかっていても)、愚直に「愛ある人として」(これが中学・高校のスローガンみたいなのだった)生きることが、やっぱりわたしにとっての理想の生なんだろうなと思う。
愛についての考え方も、相対主義も、高校の時と比べて深まりはしても結局のところ何も変化していない。大学で勉強したら、何かもっと明確な答えが見つかるのだろうと思ってたけど、今のところ余計にわからなくなる一方だ。「大学でたくさん勉強しました」なんてまだまだ(というかおそらく一生)口が裂けても言えないけれど、答えが見つからないのは勉強不足のせいなのか、どうなのか。。
pp. 48-52
愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。
[・・・]愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
[・・・]配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。[・・・]愛する心をもつ人は求めに応じる。弟の命は弟だけの問題ではなく、自分自身の問題でもある。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、同胞にも責任を感じる。
責任は、愛の第三の要素、すなわち尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。尊敬は恐怖や畏怖とはちがう。尊敬とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊敬とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。[・・・]私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。いうまでもなく、自分が独立していなければ、人を尊敬することはできない。
人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない。その人に関する知識によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。いっぽう知識も、気づかいが動機でなければ、むなしい。[・・・]愛の一側面としての知識は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。
pp. 194-197
私たちの社会では、愛とふつうの世俗的生活とは根本的に両立しない、と考えている人たちもいる。そういう人たちは、現代において愛について語ることは全般的な欺瞞に加担することでしかない、と主張する。さらにまた、現代社会において人を愛することができるのは殉教者か狂人だけだ、したがって、愛についての議論はすべて説教以外の何ものでもない、と主張する。まことに立派な意見だが、こういう考えはシニシズムを合理化することになる。実際のところ、一般の人びともひそかにそのように考えている。彼らは、「よきキリスト教徒でありたいが、本気でそうなろうと思うなら、餓死するほかはない」と思っている。この「急進主義」は、結局は道徳的ニヒリズムに陥る。「急進的な思想家」も、一般の人びとも、愛することのできないロボットであり、両者の唯一のちがいは、一般の人びとはそれに気づいていないのに対し、思想家はそれを知っており、この事実が「歴史的に必然」であることを認識しているという点である。
愛と「正常な」生活とは絶対に両立しないという主張は、抽象的な意味でしか正しくない。たしかに資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない。しかし、現代社会を冷静に見てみると、それが複雑な現象であることがわかる。たとえば、実際には役に立たない商品を売りあるくセールスマンは、嘘をつかなければ利益をあげることができないが、熟練労働者や化学者や医者は嘘をつく必要がない。同様に、農民、労働者、教師、その他さまざまな種類のビジネスマンは、仕事をやめなくとも、愛の習練を積むことができる。資本主義の原理が愛の原理と両立しないことは確かだとしても、「資本主義」それ自体が複雑で、その構造はたえず変化しており、いまなお、非同調や個人の自由裁量をかなり許容していることも、認めなければならない。
しかし、だからといって、現在のような社会システムは永遠に続くだろう、とか、現在の社会システムはやがて理想的な兄弟愛を生むことになるだろう、などと言うつもりは毛頭ない。現在のようなシステムのもとで、人を愛することのできる人は、当然、例外的な存在である。現在の西洋社会においては、愛はしょせん二次的な現象である。それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているために、非同調者だけがそれにたいしてうまく身を守ることができるからである。したがって、愛のことを真剣に考え、愛こそが、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の理にかなった答えである、と考えている人びとは、次のような結論に行き着くはずだ。すなわち、愛が、きわめて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。
その変化の方向については、本書ではほのめかすことしかできない。[・・・]
人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。[・・・]人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。
この本を読みながら、あるいは読み終えて、頭に浮かんだ引用。
「現代の世界のなかで、[・・・]誰も信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎ[=愛の働き、神、イエス]のあとを愚直について行きたいのです。」
―遠藤周作
「人類すべてに対する愛に溢れていても、対象が具体的になればなるほど愛することは難しくなる」みたいな(うろ覚え)
―ドストエフスキー
人に馬鹿にされても、偽善だと非難されても、論理的に破綻していると言われたとしても(誰よりも自分がそれをわかっていても)、愚直に「愛ある人として」(これが中学・高校のスローガンみたいなのだった)生きることが、やっぱりわたしにとっての理想の生なんだろうなと思う。
愛についての考え方も、相対主義も、高校の時と比べて深まりはしても結局のところ何も変化していない。大学で勉強したら、何かもっと明確な答えが見つかるのだろうと思ってたけど、今のところ余計にわからなくなる一方だ。「大学でたくさん勉強しました」なんてまだまだ(というかおそらく一生)口が裂けても言えないけれど、答えが見つからないのは勉強不足のせいなのか、どうなのか。。
Tuesday, June 2, 2009
なまえとつながり
今日の西洋倫理思想史の授業は、最高にアツかった。
わたしがこの間のポストで書いていたこと、考えていたことにドンピシャだった。
「そう、それ!!!!!」って感覚。
授業の内容は、ハイデガーを中心に、前後の思想家の思想を概観するというもの。
具体的には、ベルクソン、ハイデガー、レーヴィット、レヴィナスの4人で、今日はレーヴィット。
レーヴィットのハイデガー批判の中で、なまえ(固有名Eigenname; proper name)について。
さらに、レーヴィットがフォイエルバッハの評価から引き出した2つの主題。
●ひとが自己を「じぶん」と認識することの前提には、必然的に他者の存在があるということ。
●それから、身体性(これって、ハイデガーの「情状性」とどう違うのか、まだいまいちわからないけど)。
前者について、わたしはこの前のポストで、
「他者から自分が生きていることを認められなければ、もはや、「生」と「死」という区別さえ無意味なのだ。」
「他者とのつながりなんてなければ、名前なんていらない。他者が自分の存在を認めていて、合意が存在していなければ、「正しい」名前なんてない。」
と書いた。
少なくともわたしの解釈では、レーヴィットの言ってることはわたしの考えてたこととつながっている。
後者についても、おこがましさを覚悟でわたし自身の思考に即して言えば、
「自分で体験してみなきゃわからないことがある」
ってことになる。どれだけ正確な解釈ができてるかはわからないけど・・・。
***
本を読んだり、授業に出ていると、時々この「そう、それ!!!!!」って感覚が来る。
わたしの中のリアルな(つまり、西谷啓治の言うところの体得的な)問題意識や断片的な思考が、電撃的な感動と共に、つながる瞬間。
もっと勉強していくと、こういう「つながり」がどんどん増えていくんだろうな。
自分が脱構築と再構築を繰り返していく中で、「つながり」という解釈を導き出す土壌がつくられてゆく。
こういう時、勉強って、本当に楽しいと心から思える。
わたしがこの間のポストで書いていたこと、考えていたことにドンピシャだった。
「そう、それ!!!!!」って感覚。
授業の内容は、ハイデガーを中心に、前後の思想家の思想を概観するというもの。
具体的には、ベルクソン、ハイデガー、レーヴィット、レヴィナスの4人で、今日はレーヴィット。
レーヴィットのハイデガー批判の中で、なまえ(固有名Eigenname; proper name)について。
Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen, 第3節
両親が子どものためにわざと、歴史的にまったく負荷を負っていない呼び名、その子のみに帰属して、他のいかなる者にも帰属しない呼び名を選んだとしよう。その場合であっても、子どもが以後その名を身に帯びることになるのは、けっしてじぶん自身のためではなく、他者たちのためである。つまりその名は、他者たちによって呼ばれうるためのもの、他者たちのまえでじぶんを証明しうるためのもの、他者たちのために署名しうるための或るものなのである。[中略]いわゆる固有名とは、かくしてふたつの意味で他者の名である。さしあたり他者たちから与えられたものとしても、他者たちのためにさだめられたものとしても、他者のなまえなのである。
さらに、レーヴィットがフォイエルバッハの評価から引き出した2つの主題。
・感覚主義Sensualismus:身体性、感受性に根ざすこと
・他者中心主義Altruismus:デカルト的なegoにとって、他者は必要条件(conditio essendi)であること
●ひとが自己を「じぶん」と認識することの前提には、必然的に他者の存在があるということ。
●それから、身体性(これって、ハイデガーの「情状性」とどう違うのか、まだいまいちわからないけど)。
前者について、わたしはこの前のポストで、
「他者から自分が生きていることを認められなければ、もはや、「生」と「死」という区別さえ無意味なのだ。」
「他者とのつながりなんてなければ、名前なんていらない。他者が自分の存在を認めていて、合意が存在していなければ、「正しい」名前なんてない。」
と書いた。
少なくともわたしの解釈では、レーヴィットの言ってることはわたしの考えてたこととつながっている。
後者についても、おこがましさを覚悟でわたし自身の思考に即して言えば、
「自分で体験してみなきゃわからないことがある」
ってことになる。どれだけ正確な解釈ができてるかはわからないけど・・・。
***
本を読んだり、授業に出ていると、時々この「そう、それ!!!!!」って感覚が来る。
わたしの中のリアルな(つまり、西谷啓治の言うところの体得的な)問題意識や断片的な思考が、電撃的な感動と共に、つながる瞬間。
もっと勉強していくと、こういう「つながり」がどんどん増えていくんだろうな。
自分が脱構築と再構築を繰り返していく中で、「つながり」という解釈を導き出す土壌がつくられてゆく。
こういう時、勉強って、本当に楽しいと心から思える。
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