「いろんな「違い」はあってしかるべきなんであって、お互いにそれを認め合って受け入れて理解する能力も、人間にはあるはずなのに。平和のために必要なものはそういう意識の変革なのか? でもそれは「洗脳」にはならないか? 「洗脳」の結果全ての人間は画一的になってしまわないか? 皆が「違いを認めよう」という同じ意志を持った時点で「違い」は存在しなくなるのか?」
「自然権って、人間が生まれ持った権利、誰にでもある権利、ってことになってるけど、その概念自体は近代ヨーロッパで生まれたもので、ということはやっぱり自然権は普遍的に存在するものでなく近代ヨーロッパの価値観の延長線上にある社会でしか通用しないのか? ヨーロッパの価値観が支配する世界の構造が崩れた時、人権の存在しない価値観は正しいとされうるのか?」
「一体、この世でいちばん大切なものって何なんだろう。答えなんて世界中捜し回ってもきっとどこにもない」
高校生の私はこんなことを考えていたらしい。6年前。
表現は拙くて青臭いけど、今も昔も考えてること大して変わってない。大学入ってからの6年間、私はなにやってたんだろうという途方もない虚無感に包まれた。
あの頃から何か変わったものがあるとすれば、当然多少の知識は増えた。でもそれはむしろ、頭の中がより多くのことばに満たされていった、と言った方がいい。
あの頃はことばが少なかった代わりに、希望があった。しかも、ことばを多く身につけることによって希望を現実に変える魔法を手に入れられると思っていた。
実際は、新たに身につけたことばによって、その希望をひとつひとつ潰してゆく作業、それがここ数年間の変化とも言えないような変化だった気がする。
--
最近読んだジュリアン・グリーンの小説で、純粋さの行き着く先は人間社会における破綻でしかないことが見事に描かれていたのはとても示唆的だった。
純粋さや完全さを追い求める中で、人間(や人間の営み)の内にある不純さや不完全さに打ちひしがれる。その圧倒的な絶望を背負いつつ、しかしその絶望の境地に安住することも許されず、一縷の希望の可能性をも否定しきれないが故に、思考停止をせずにいること、そこにしか存在することが許される道はないような気がする。
--
卒論のテーマ、ようやく方向性ぐらいは絞れてきた。
さんざん寄り道して回り道して、結局元のところに戻ってきた感じ。
実際は、新たに身につけたことばによって、その希望をひとつひとつ潰してゆく作業、それがここ数年間の変化とも言えないような変化だった気がする。
--
最近読んだジュリアン・グリーンの小説で、純粋さの行き着く先は人間社会における破綻でしかないことが見事に描かれていたのはとても示唆的だった。
純粋さや完全さを追い求める中で、人間(や人間の営み)の内にある不純さや不完全さに打ちひしがれる。その圧倒的な絶望を背負いつつ、しかしその絶望の境地に安住することも許されず、一縷の希望の可能性をも否定しきれないが故に、思考停止をせずにいること、そこにしか存在することが許される道はないような気がする。
--
卒論のテーマ、ようやく方向性ぐらいは絞れてきた。
さんざん寄り道して回り道して、結局元のところに戻ってきた感じ。