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Wednesday, September 1, 2010

変わるものと変わらないもの

久しぶりに昔の日記の頁を繰る。

「いろんな「違い」はあってしかるべきなんであって、お互いにそれを認め合って受け入れて理解する能力も、人間にはあるはずなのに。平和のために必要なものはそういう意識の変革なのか? でもそれは「洗脳」にはならないか? 「洗脳」の結果全ての人間は画一的になってしまわないか? 皆が「違いを認めよう」という同じ意志を持った時点で「違い」は存在しなくなるのか?」

「自然権って、人間が生まれ持った権利、誰にでもある権利、ってことになってるけど、その概念自体は近代ヨーロッパで生まれたもので、ということはやっぱり自然権は普遍的に存在するものでなく近代ヨーロッパの価値観の延長線上にある社会でしか通用しないのか? ヨーロッパの価値観が支配する世界の構造が崩れた時、人権の存在しない価値観は正しいとされうるのか?」

「一体、この世でいちばん大切なものって何なんだろう。答えなんて世界中捜し回ってもきっとどこにもない」

高校生の私はこんなことを考えていたらしい。6年前。
表現は拙くて青臭いけど、今も昔も考えてること大して変わってない。大学入ってからの6年間、私はなにやってたんだろうという途方もない虚無感に包まれた。

あの頃から何か変わったものがあるとすれば、当然多少の知識は増えた。でもそれはむしろ、頭の中がより多くのことばに満たされていった、と言った方がいい。
あの頃はことばが少なかった代わりに、希望があった。しかも、ことばを多く身につけることによって希望を現実に変える魔法を手に入れられると思っていた。
実際は、新たに身につけたことばによって、その希望をひとつひとつ潰してゆく作業、それがここ数年間の変化とも言えないような変化だった気がする。

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最近読んだジュリアン・グリーンの小説で、純粋さの行き着く先は人間社会における破綻でしかないことが見事に描かれていたのはとても示唆的だった。

純粋さや完全さを追い求める中で、人間(や人間の営み)の内にある不純さや不完全さに打ちひしがれる。その圧倒的な絶望を背負いつつ、しかしその絶望の境地に安住することも許されず、一縷の希望の可能性をも否定しきれないが故に、思考停止をせずにいること、そこにしか存在することが許される道はないような気がする。

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卒論のテーマ、ようやく方向性ぐらいは絞れてきた。
さんざん寄り道して回り道して、結局元のところに戻ってきた感じ。

Thursday, August 19, 2010

生活

生活と人生とは違う。明石は始めて喀血した夜の酒場をふいに思い出す。同窓生たちは彼が病気の間、一度も見舞に来てくれなかった。彼が病気にかかったことさえ、たぶん知らなかったのであろう。連中はあの日と同じように今日も生活を持続しているだろう。連中は戦争に行った時、人生にふれ、人生を消耗してしまったにちがいない。俺もふたたび娑婆に出れば、どれだけ生活の中で人生を持続できるかおぼつかない。
――遠藤周作 『満潮の時刻』



生活の中に人生を見出せないのが現代の(一部のあるいは大部分の)病なのかもしれない。

でも、

人生が消耗することを、生活のせいにしたところで何も解決しないだろう。
人生は生活がなければ成り立たない。

いのちがなければ、その意味なんて。

人生にばかり目が眩んで、生活が見えない。
いま、私に必要なのは、人生よりも、生活に違いない。

生活を成立させていれば人生がどうであろうと、合格。
人生を追求して生活が儘ならぬなら、人間失格。

そういう世の中だから。

Thursday, January 21, 2010

ちょw

「『労働新聞』の国際欄は、世界の人々がいかに金日成や金正日の思想に共鳴しているのか、といった記事が中心に掲載される。
たとえば8月14日付の国際面トップでは『絶世の偉人に対する絶え間ない魅惑と敬慕』というタイトルで、トーゴの故エヤデマ大統領がいかに故金日成主席を尊敬していたかについて書かれた。
記事によると、金日成の偉大さにあまりに感激したエヤデマは彼を師匠として仰ぎ、トーゴで国家的行事が行われるたびに『金日成将軍の歌』を流したという。」
――「北朝鮮がみえてくる なるほど、労働新聞」クーリエ・ジャポン2009年10月号107ページ

ちょwww
エヤデマwwww

この記事の内容が本当だとしたら(本当かどうかは要確認)、、
つい最近まで独裁者として世界最長記録保持者だっただけあると妙に感心せざるを得ないw
これじゃ日本から援助切られても仕方ないよね。。

2月末に迫る次の大統領選挙はどうなるのだろうか。知り合いのトーゴ関係者に聞くと、だいたいが現大統領(エヤデマの息子)が勝つとの見通しみたい。前回みたいに大規模な暴動が起きないといいけど。。

トーゴ人の友達が言っていた言葉、
「大統領が誰になろうとどうでもいい。ただ、国民皆がちゃんと暮らしていければそれでいい。」
というのが印象的。

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「アフリカの人たちが持続的な発展を享受するには何が必要なのでしょうか。(中略)
教育、教育、また教育です。最低限の教育すら受けていない人は、抽象的な思考ができないので、簡単なコミュニケーションを取ることすらままなりません。アフリカの建設現場にはインドや中国からの作業員がたくさんいますが、すぐそばに仕事にあぶれているアフリカ人がたくさんいます。教育をまったく受けていない人は単純労働にすら従事できないのです。」
By 勝間和代 ――「なぜ、"遠いアフリカ"に援助をする必要があるのか?」クーリエ・ジャポン2009年10月号43ページ

ちょwww
カツマさんwwww

・勝間さんは「最低限の教育すら受けていない人」つまり旧宗主国の言語(英語やフランス語など)を話さないであろう人々と現地語で会話した上でこのような判断を下したのか
・そもそも学校教育という概念や制度がなく「最低限の教育すら受けていない人」しかいなかったはずのかつてのアフリカでは、「抽象的な思考ができない」ために「簡単なコミュニケーションを取ることすらままならな」かったり「単純労働にすら従事できない」中で、どうやって社会生活を成立させていたのか
・「仕事にあぶれているアフリカ人」が「単純労働にすら従事できない」のは、本当に「教育をまったく受けていない」せいなのか

わたしだってそんなにアフリカのこと知ってるわけじゃないけど、「抽象的思考ができない」はひどすぎでしょう。。これだけ社会に影響力のある人がこんなことを言ってしまうのは、由々しき事態だと思うのだけど。。

ただ、反論(?)としては、「最低限の教育」が、学校教育以前の、ことば(現地語)をしゃべるとか家の手伝いをするとかそういう基本的な社会生活能力を身につける/させることを意味しているという可能性が考えられる。勝間さんが二度訪れたというスーダンはそれがままならないほどひどいとこということを言いたいのかもしれない。
でも、もしそうだとしたらそれは紛争でコミュニティが崩壊したために、本来コミュニティの中で育てば普通に身につくはずの能力が身につかなかった話であって(本当に崩壊したのかどうか詳しくは知らないけど)、恒常的な貧困とは別にするべきじゃないのか。それに、スーダンで見た例を「アフリカ」と括って語るべきじゃないと思う(「アフリカ」と括ってしまうのは、自戒も込めて、だけど)。

あと、この記事のタイトル「なぜ、"遠いアフリカ"に援助をする必要があるのか?」に対しても、Dambisa Moyoの"Dead Aid"という本を読んでいたりすると、まず問うべきはそもそも援助をする必要があるのか、ということなのではないかと思ってしまう。けど詳しくはこの本を読み終えてから書くことにする。だけどとにかくこの本は痛快!

援助をめぐって何かしらひっかかることがある時、文化人類学的な「彼ら」との関わり方ってすごく意義があるんじゃないかと思ったりする。援助も文化人類学も、どっちもほんのちょっぴりかじっただけだけど。
文化人類学だってあくまでも「自分」は「彼ら」の解釈者であって、決して「自分」と「彼ら」が対等になれたり「自分」が「彼ら」の声の代弁者になれるわけではないけれど、(歴史上どうだったかは別として少なくとも今は)「彼ら」との境界線ぎりぎりに立つぐらいまでは「彼ら」の側に踏み込んで行けるんじゃないかって気がちょっぴりする(そうなった時こそ、逆に境界線の存在に意識的になることを忘れてはいけないんだろうけど)。
・・・というかすかな希望に縋りつくように文化人類学の勉強を始めてみた今日この頃。

Wednesday, July 22, 2009

人の気持ちがわかる脳

――利己性・利他性の脳科学
村井俊哉著、ちくま新書、2009年

SSRIは、利己主義か利他主義かという軸での人間の価値観にも影響を与える可能性があると思う。つまり、SSRIによって、脳内のセロトニンの働きが高まり、結果としてαが減少するという可能性だ。αが減少することは、利他的懲罰的な志向が減少するということ、つまり多少の不公正にもあまり腹がたたず、まあいいっか、とやり過ごせるようになるということだ。(p.113)

SSRIでの治療は、奇妙で不当な会社のしきたりと真正面から戦って力尽きかけていた人に対して、その人の価値観を変更することで心の危機を救うという、なんともおかしな解決を導いているのだ。(p.115)
ゼミでフランクルを読んでいる時にも、「病気になっても、あるいは薬を投与しても、変わり得ない人格があるか?」(フランクル的にはあるらしい)という話をしていた矢先だったので、かなり気になったところ。
もはや「ほんとうのじぶん」なんてものがあることを信じられなくて、この点についてはフランクルにやや賛成しかねるわたしでも、感覚的にはやっぱり、人為的に(どこまでが人為的かというのも厳密に考えたら難しい問題かもしれないけれど)人の精神的な部分に変化を加えることに、抵抗感がある。マインドコントロール、とも通じるところを感じるからかしら? 
なんて言いつつ、明日までの英語のエッセイ書かなきゃいけないから徹夜だーとか言って、BFが大事そうに冷蔵庫にしまっていたリポDをこっそり取り出してぐびぐびやっているわたしがここにいるわけだけど。「教育もマインドコントロールじゃないの?」みたいな問題と同じく、どこまでがOKでどこまでが危険なのかっていう線引きの問題なんだろうけど、その線の位置が時代とともにどんどん動いていって、最終的にはなんでもOKになっちゃうんじゃないの?みたいな漠然とした不安が、あるのかもしれない。あえて言葉にするとすれば。

それにしても、完全文系のわたしにとっては脳科学をはじめとする理系の考え方ってとても新鮮で魅力的でわくわくすると同時に、日々悶々と考えている人の心や他者との関係までをもこうも明快に客観的・科学的に説明されてしまうと、哲学とか人文系の学問ってやっぱりもうダメなのかしら、と思ってしまう。
「人の心をすべて化学物質や化学反応に還元する」ことに異議を唱える人文系の言説は、果たして「科学信奉主義」なるものに対する真の警告たりうるのか、それともただ単に人文学者がraison d'êtreを失わないための保身なのか・・・。
哲学が今後も存在意義を主張しうるとしたら、それは哲学独自の在り方ではなくて、それこそ文理を止揚(・・・とまではいかなくても、そんなかんじのsomething)した在り方によってのみ可能なのではないかしら。死生学なんて、まさにそんな要請から生まれてきたものでしょう(ただ、今学期受けた授業の内容からは、死生学ですらいろんな分野の寄せ集めにしか思えなかったけど・・・。異なる複数のディシプリンの止揚とか、相当難しいのはわかるのですが)。

とはいえ完全に打ちのめされたわけでもなくて、物足りなかった点も何点か。

ひとつめとしては、
「なぜ」私たち人間は、他の人たちの喜びや苦しみによって、自らの喜びや苦しみの価値が変わるのか、というさらに深い問いを投げかける読者もいらっしゃるだろう。そのことには、この本では答えていない。(p.195)
と著者も書いているように、いちばん知りたい「なぜ」に対する答えが得られなかったのがもどかしいところ。まあ新書だし仕方ないのかもしれないけど。

それから、本屋さんでぱらぱらとめくっていた時に、わたしが以前読んで衝撃的感動を覚えた中沢新一の『愛と経済のロゴス』に出てくる「純粋贈与」(マルセル・モースの贈与論を発展させた、「交換」「贈与」に次ぐ第三の概念)の話を引用していたのを見て、人類学と脳科学をつなげてくれたのか!!!と感動と期待に胸を打ち震わせたから買ったと言っても過言ではないのに、ちゃんと読んでみたら中沢新一の論について真正面からは向き合っていなかった。
中沢の「純粋贈与」は、人間ではなく霊性や神の領域に属するいとなみであると述べられており、脳科学が扱える水準を超えている。(p.131)

中沢の話では、そのような第三の原理、純粋贈与の原理は、神のみが与えうる大地の恵みのようなものということになっている。神が現れてしまうと、さすがに脳科学では扱いが難しい。(p.144)
今回に限らず、「これ以上はわれわれのディシプリンで扱う範疇を超えています」というのはしょっちゅう聞く話。専門家としては当然のことなのかもしれないけれど、わたしみたいな勉強不足のおばかさんは、これを聞くとものすごくがっくりきてしまう。仮に学問が真理の探究の営みだとしたら、こんな発言をすることは本末転倒な気がしてしまう。
自分が拠って立つディシプリンの前提を絶対的なものとしてものごとを深めていくことが重要なのはもちろんだけど、それと同じくらい、その前提を疑ったりちょっと壊してみることも意味のあることなんじゃないか。それは、自分の居場所を危うくすることかもしれないし、勇気がいることには間違いない。でも、それをしないことには、前述の止揚だとか、今流行りの「学際的」「分野横断的」な営みなんてできないんじゃないか。と、哲学をほんのちょっぴりかじっただけの、学問論を語れる立場なんかには到底ない一学生は、思ってしまいます。

とはいえこの本の全体的な感想としては、わたしみたいな理系の基礎知識もないような人でも理解できるように丁寧にやさしく書いてあってよかったし、「やっぱり脳科学スゴイ」と改めて思いました。ちゃんちゃん。

Friday, June 19, 2009

愛するということ

エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991

pp. 48-52
 愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。
 [・・・]愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
 [・・・]配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。[・・・]愛する心をもつ人は求めに応じる。弟の命は弟だけの問題ではなく、自分自身の問題でもある。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、同胞にも責任を感じる。
 責任は、愛の第三の要素、すなわち尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。尊敬は恐怖や畏怖とはちがう。尊敬とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊敬とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。[・・・]私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。いうまでもなく、自分が独立していなければ、人を尊敬することはできない。
 人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない。その人に関する知識によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。いっぽう知識も、気づかいが動機でなければ、むなしい。[・・・]愛の一側面としての知識は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

pp. 194-197
 私たちの社会では、愛とふつうの世俗的生活とは根本的に両立しない、と考えている人たちもいる。そういう人たちは、現代において愛について語ることは全般的な欺瞞に加担することでしかない、と主張する。さらにまた、現代社会において人を愛することができるのは殉教者か狂人だけだ、したがって、愛についての議論はすべて説教以外の何ものでもない、と主張する。まことに立派な意見だが、こういう考えはシニシズムを合理化することになる。実際のところ、一般の人びともひそかにそのように考えている。彼らは、「よきキリスト教徒でありたいが、本気でそうなろうと思うなら、餓死するほかはない」と思っている。この「急進主義」は、結局は道徳的ニヒリズムに陥る。「急進的な思想家」も、一般の人びとも、愛することのできないロボットであり、両者の唯一のちがいは、一般の人びとはそれに気づいていないのに対し、思想家はそれを知っており、この事実が「歴史的に必然」であることを認識しているという点である。
 愛と「正常な」生活とは絶対に両立しないという主張は、抽象的な意味でしか正しくない。たしかに資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない。しかし、現代社会を冷静に見てみると、それが複雑な現象であることがわかる。たとえば、実際には役に立たない商品を売りあるくセールスマンは、嘘をつかなければ利益をあげることができないが、熟練労働者や化学者や医者は嘘をつく必要がない。同様に、農民、労働者、教師、その他さまざまな種類のビジネスマンは、仕事をやめなくとも、愛の習練を積むことができる。資本主義の原理が愛の原理と両立しないことは確かだとしても、「資本主義」それ自体が複雑で、その構造はたえず変化しており、いまなお、非同調や個人の自由裁量をかなり許容していることも、認めなければならない。
 しかし、だからといって、現在のような社会システムは永遠に続くだろう、とか、現在の社会システムはやがて理想的な兄弟愛を生むことになるだろう、などと言うつもりは毛頭ない。現在のようなシステムのもとで、人を愛することのできる人は、当然、例外的な存在である。現在の西洋社会においては、愛はしょせん二次的な現象である。それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているために、非同調者だけがそれにたいしてうまく身を守ることができるからである。したがって、愛のことを真剣に考え、愛こそが、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の理にかなった答えである、と考えている人びとは、次のような結論に行き着くはずだ。すなわち、愛が、きわめて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。
 その変化の方向については、本書ではほのめかすことしかできない。[・・・]
 人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。[・・・]人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。

この本を読みながら、あるいは読み終えて、頭に浮かんだ引用。

「現代の世界のなかで、[・・・]誰も信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎ[=愛の働き、神、イエス]のあとを愚直について行きたいのです。」
 ―遠藤周作

「人類すべてに対する愛に溢れていても、対象が具体的になればなるほど愛することは難しくなる」みたいな(うろ覚え)
 ―ドストエフスキー

人に馬鹿にされても、偽善だと非難されても、論理的に破綻していると言われたとしても(誰よりも自分がそれをわかっていても)、愚直に「愛ある人として」(これが中学・高校のスローガンみたいなのだった)生きることが、やっぱりわたしにとっての理想の生なんだろうなと思う。

愛についての考え方も、相対主義も、高校の時と比べて深まりはしても結局のところ何も変化していない。大学で勉強したら、何かもっと明確な答えが見つかるのだろうと思ってたけど、今のところ余計にわからなくなる一方だ。「大学でたくさん勉強しました」なんてまだまだ(というかおそらく一生)口が裂けても言えないけれど、答えが見つからないのは勉強不足のせいなのか、どうなのか。。