Saturday, May 29, 2010

覚悟

先日、とある病院の「パストラル・ケア」研修というのに半分参加・半分見学みたいな感じでお邪魔してきました。

パストラル・ケアというのは、(たぶん)「スピリチュアル・ケア」とほぼ同義で、ともすれば病気としか向きあわない機械的な現代医療の中で、病気ではなく患者さんその人と向き合い、その人の心のケアをしていこう、というかんじの取り組み(というのが少なくとも私の理解)。


それまで実は私は、学問的な意味でのスピリチュアリティって、「オーラの泉」とか世間でスピリチュアルともてはやされているようないかがわしい諸々とは違うんだろう、っていうことぐらいはわかっていたけど、それ以上のことはあんまりよくわかっていなかった。

この研修を通して知ったのは、少なくとも臨床的なスピリチュアル・ケアというのは、必ずしも超自然的な何かを感じるとか信じるとか、そういうことではなくて、人間の心の一番奥深いところに触れることなんだ、ということ。

ケアをするための知識とかコミュニケーション手法とか技術的な点はひとまず置いておいて、臨床的なスピリチュアル・ケアの本質を考えるとおそらく、「全人的な人との関わり方」というのとかなり近い意味合いを持っているんじゃないかと思う。

そう考えると、「スピリチュアル・ケア」という括りをわざわざ作って特別視しなければいけない程に、私たちの日常社会では人間関係は希薄で殺伐としたものになっているのか、と思った。

全人的な人間関係は、家族や友達や周囲の人との関わりを通して日常の中に当たり前にあってもいいはずなのに、そうではなくなって、何か特別な地位を与えられた技術と化してしまうのって、なんだかすごく違和感を感じる。切ない。


とはいえ医療の現場でそういうニーズがあるのは事実で、それに本当に真摯に取り組んでいる人たちを見て、私はものすごい衝撃を覚えた。

「スピリチュアル・ケアをしようと思うなら、相手との関わりの中で自分自身も傷だらけになる覚悟をしなければならない」

と、研修会の講師の先生がおっしゃっていた。

患者さんの話を聞いて、そうですね、って、ただ答えていればいいのではない。
ケアワーカーと患者という非対称な関係を超えて、ひとりの人間として、相手と向き合うこと。


自分自身も傷だらけになる――。


その言葉を聞いて私が思い出したのは、トーゴでの生活のことだった。

おこがましさは自覚しつつも、やっぱりNGOで働くという立場で、現地の人々のためになることを何か少しでもできたらいいな、という思いで私はトーゴに行った。

でも、それはある意味挫折に終わった。

もちろん、即物的な成果はそれなりに出した。資金調達したり、組織体制を整えたり。研修先NGOにとって私が初めてのインターン受け入れの経験だったのだけど、今後もぜひインターンを受け入れたいと言ってくれたりもした。

だけどほんとは、おこがましくもトーゴの人々を「助け」るはずのNGO活動で、私は、自分を守ることでいっぱいいっぱいだった。

ここでは誰も守ってくれる人がいない。そんな思いが常に自分を脅かしていた。

本当に必要とされるままに助けていたら、こっちが死んじゃうから。
普通だったら、人から必要とされることはおそらく嬉しいことだけど、トーゴではちょっと違った。必要とされることは、生命に対する脅威とものすごく近いところにあった。

私は死にたくなかった。

だから、「わたし」と「かれら」との圧倒的な非対称性の中で、私は自分を守ること、つまり、トーゴの人たちとの触れ合いの中でいかに自分が傷つかないようにするかということで、精一杯だった。


情けない。


胸がいっぱいになった。

胸がいっぱいになって、涙が溢れてきてしまう自分の弱さに、ますます情けなくなった。


自分も傷だらけになる覚悟、そして傷だらけになっても生き抜く強さ。


初めて聞くことではないし、ことばで言うのはいとも容易い。
だけど今回の研修で、本当にこれを体現している人を目の前にして、それはもうとてつもない衝撃で、私は完全に打ちのめされてしまった。

私が大切に大切にことばにして、いつも握り締めていたものを、この体験はぐしゃぐしゃに壊してしまった。

そんなの、ただの ことば だよ、と。

このポストだって。

ことばの力とはなんだろう。