Wednesday, July 22, 2009

人の気持ちがわかる脳

――利己性・利他性の脳科学
村井俊哉著、ちくま新書、2009年

SSRIは、利己主義か利他主義かという軸での人間の価値観にも影響を与える可能性があると思う。つまり、SSRIによって、脳内のセロトニンの働きが高まり、結果としてαが減少するという可能性だ。αが減少することは、利他的懲罰的な志向が減少するということ、つまり多少の不公正にもあまり腹がたたず、まあいいっか、とやり過ごせるようになるということだ。(p.113)

SSRIでの治療は、奇妙で不当な会社のしきたりと真正面から戦って力尽きかけていた人に対して、その人の価値観を変更することで心の危機を救うという、なんともおかしな解決を導いているのだ。(p.115)
ゼミでフランクルを読んでいる時にも、「病気になっても、あるいは薬を投与しても、変わり得ない人格があるか?」(フランクル的にはあるらしい)という話をしていた矢先だったので、かなり気になったところ。
もはや「ほんとうのじぶん」なんてものがあることを信じられなくて、この点についてはフランクルにやや賛成しかねるわたしでも、感覚的にはやっぱり、人為的に(どこまでが人為的かというのも厳密に考えたら難しい問題かもしれないけれど)人の精神的な部分に変化を加えることに、抵抗感がある。マインドコントロール、とも通じるところを感じるからかしら? 
なんて言いつつ、明日までの英語のエッセイ書かなきゃいけないから徹夜だーとか言って、BFが大事そうに冷蔵庫にしまっていたリポDをこっそり取り出してぐびぐびやっているわたしがここにいるわけだけど。「教育もマインドコントロールじゃないの?」みたいな問題と同じく、どこまでがOKでどこまでが危険なのかっていう線引きの問題なんだろうけど、その線の位置が時代とともにどんどん動いていって、最終的にはなんでもOKになっちゃうんじゃないの?みたいな漠然とした不安が、あるのかもしれない。あえて言葉にするとすれば。

それにしても、完全文系のわたしにとっては脳科学をはじめとする理系の考え方ってとても新鮮で魅力的でわくわくすると同時に、日々悶々と考えている人の心や他者との関係までをもこうも明快に客観的・科学的に説明されてしまうと、哲学とか人文系の学問ってやっぱりもうダメなのかしら、と思ってしまう。
「人の心をすべて化学物質や化学反応に還元する」ことに異議を唱える人文系の言説は、果たして「科学信奉主義」なるものに対する真の警告たりうるのか、それともただ単に人文学者がraison d'êtreを失わないための保身なのか・・・。
哲学が今後も存在意義を主張しうるとしたら、それは哲学独自の在り方ではなくて、それこそ文理を止揚(・・・とまではいかなくても、そんなかんじのsomething)した在り方によってのみ可能なのではないかしら。死生学なんて、まさにそんな要請から生まれてきたものでしょう(ただ、今学期受けた授業の内容からは、死生学ですらいろんな分野の寄せ集めにしか思えなかったけど・・・。異なる複数のディシプリンの止揚とか、相当難しいのはわかるのですが)。

とはいえ完全に打ちのめされたわけでもなくて、物足りなかった点も何点か。

ひとつめとしては、
「なぜ」私たち人間は、他の人たちの喜びや苦しみによって、自らの喜びや苦しみの価値が変わるのか、というさらに深い問いを投げかける読者もいらっしゃるだろう。そのことには、この本では答えていない。(p.195)
と著者も書いているように、いちばん知りたい「なぜ」に対する答えが得られなかったのがもどかしいところ。まあ新書だし仕方ないのかもしれないけど。

それから、本屋さんでぱらぱらとめくっていた時に、わたしが以前読んで衝撃的感動を覚えた中沢新一の『愛と経済のロゴス』に出てくる「純粋贈与」(マルセル・モースの贈与論を発展させた、「交換」「贈与」に次ぐ第三の概念)の話を引用していたのを見て、人類学と脳科学をつなげてくれたのか!!!と感動と期待に胸を打ち震わせたから買ったと言っても過言ではないのに、ちゃんと読んでみたら中沢新一の論について真正面からは向き合っていなかった。
中沢の「純粋贈与」は、人間ではなく霊性や神の領域に属するいとなみであると述べられており、脳科学が扱える水準を超えている。(p.131)

中沢の話では、そのような第三の原理、純粋贈与の原理は、神のみが与えうる大地の恵みのようなものということになっている。神が現れてしまうと、さすがに脳科学では扱いが難しい。(p.144)
今回に限らず、「これ以上はわれわれのディシプリンで扱う範疇を超えています」というのはしょっちゅう聞く話。専門家としては当然のことなのかもしれないけれど、わたしみたいな勉強不足のおばかさんは、これを聞くとものすごくがっくりきてしまう。仮に学問が真理の探究の営みだとしたら、こんな発言をすることは本末転倒な気がしてしまう。
自分が拠って立つディシプリンの前提を絶対的なものとしてものごとを深めていくことが重要なのはもちろんだけど、それと同じくらい、その前提を疑ったりちょっと壊してみることも意味のあることなんじゃないか。それは、自分の居場所を危うくすることかもしれないし、勇気がいることには間違いない。でも、それをしないことには、前述の止揚だとか、今流行りの「学際的」「分野横断的」な営みなんてできないんじゃないか。と、哲学をほんのちょっぴりかじっただけの、学問論を語れる立場なんかには到底ない一学生は、思ってしまいます。

とはいえこの本の全体的な感想としては、わたしみたいな理系の基礎知識もないような人でも理解できるように丁寧にやさしく書いてあってよかったし、「やっぱり脳科学スゴイ」と改めて思いました。ちゃんちゃん。

Monday, July 20, 2009

an exhausting day

ヒールで長時間歩いて足が痛い。寝る前にメーク落とさなきゃ。おんなのこって大変ね。

今日は、井の頭公園に出店/出展している人たちの出し物を見たり話を聞いたりした。
前までは、こういうのに参加する人って狭義のartisticな若者だけ、みたいな勝手なイメージがあったけど、今日見てみたら、自分で日本各地を回って撮った電車の写真を1枚100円で売っている人とか、『北斗の拳』をそれはもう熱狂的に読み聞かせしている人とか、ジャンルも年齢層もいろんな人がいてすっごくおもしろかった。

完全にわたしの無知&失礼極まりない偏見なのかもしれないけど、いわゆる「オタク」の人って自分(たち)だけで自分(たち)だけの世界を築き上げてその中に住んでいるみたいなイメージがあったから、ああやって不特定多数の人の前にわざわざ出ていく人もいるっていうのを知ったのは、実は衝撃的なくらいに新鮮だった。

ちゃんとした根拠はないんだけど、前に比べてだいぶ、「オタク」という言葉にネガティブな意味合いが含まれることってなくなったんじゃないかな、なんてぼんやりと思ったり。逆に「日本が誇るべきもの」にすらなりつつある印象もあるし。
とにかく今日の『北斗の拳』の読み聞かせは、お腹がよじれるぐらいに本当におもしろかった。

(今では「オタク」の中にもいろいろと細かい分類ができて、「オタク」というくくりがそもそも有効じゃなくなってるのかもしれないけど。)

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生きることがとても難しく感じられる時もあれば、生きることについて何を悩む必要があるんだろうと思う時もある。

あっはっはって笑うのって、ご飯を食べるのと同じくらい、太陽の光を浴びるのと同じくらい、元気に生きるためにはきっとすごく大事なことなんだろうなあ。

激ポジの人には、何か周りにも伝染するとてつもないエネルギーがある気がする。
ニヒリズムは思考の必然だとか、ネガから逃れるには思考停止するしかないとかという思考を一度経験すると、「考える」ことと「ポジティブである」ことを両立できることのすごさはもう尋常じゃないものに思われる。

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倫理学の熊野先生がこの間言っていたこと。

哲学を専門にしない人には、
・部分的に理解する権利 と
・誤解する権利 がある

だから、ある哲学者の言っていること全てをその意図通りに理解しなくても/できなくても、何か自分にひっかかる(キター的な)ものがあればいいんだって。

いろいろな解釈と反論が可能な言葉だと思うけど(笑)、わりと納得。

Wednesday, July 15, 2009

幻想

自ら可能性を閉じることだけは絶対にすまい、と思っていたけれど、知らず知らずのうちにまた枠の中に閉じ込められそうになって喘いでいる自分がいた。

どうも最近わたしを包み込んでいる「社会」は、あたかも決められたレールがあるように見せかけることに長けている上に、そこから外れることに対して極度の不安を抱かせる要素が多くてよくない。

世界はもっと、「ナンデモアリ」なところなんだった!

世界を旅した去年1年間をかけて、否、それを含めた自分のこれまでの人生をかけて、このことこそを学んできたのではなかったか。
頭ではこのコトバを記憶していて、常に自分に言い聞かせていたつもりだったけれど、それはもはや単なる「記号」と化しつつあったのかもしれない。
不可能性の幻想に囚われて、自らの「自由」によって絶望に打ちひしがれそうになっていた現実。ナサケナイッ

こんな幻想は、梅雨の雨と共に、さようなら。

Thursday, July 9, 2009

時計じかけのオレンジ

Clockwork Orange
スタンリー・キューブリック監督、1971年

とにかくわけがわかんないって聞いてたから「マルコヴィッチの穴」的なわけのわからなさを想像して見たら、それなりに理性でも理解できる程度の、それでいて他にはないような独特さを持った、不思議な世界だった。

最後まで飽きる隙を与えないストーリー展開。
独特の言葉遣い。こういう言葉遊び的なものって、外国語に訳すときすごく難しいんだろうなぁ。

映画に詳しくも何ともないわたしの印象では、ティム・バートンもこういう系列かな、と思ったんだけどどうなんでしょう。「チャーリーとチョコレート工場」とか、「スウィーニー・トッド」とか。

Monday, July 6, 2009

夏のはじまり

昨日、本郷で蝉が鳴いていた。
蝉の鳴き声にはあまり似つかわしくない曇り空だったけど、もう夏なんだなーとびっくり。

日本で夏を過ごすのは、だいぶ久しぶりのような気がする。
ただ暑いのは耐えられるけど、蒸し暑いのは嫌い。
たぶん1年の中で一番苦手な季節だけど、今年もいい夏になりますように。

Thursday, July 2, 2009

ナルニア国物語 第2章:カスピアン王子の角笛

アンドリュー・アダムソン監督、2007年

一作目を観たのが昔すぎてあんまり覚えてなかったけど、なんとかついていけた。

「自然vs人間」みたいな構図が意識されているのかいないのか。
でもそれより何より「正義vs悪」という構図が圧倒的に前面に出ていて、最後には正義が勝つというのが、やっぱりディズニーだし、やっぱりファンタジーだな、ってかんじ。

自然を擬人化しすぎてた(川とか木とか花びらが人の顔を持つ)のがちょっと気になったけど、ディズニーだってことを割り切ってその中に没入してしまえば、どきどきわくわくでおもしろい映画。
何よりカスピアン王子がかっこよかったからよし。

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ところで最近映画のレビューが多いのは、水曜日にTSUTAYAが半額になるので、毎週1本DVDを観ることにしているからです。