Friday, June 19, 2009

愛するということ

エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991

pp. 48-52
 愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。
 [・・・]愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
 [・・・]配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。[・・・]愛する心をもつ人は求めに応じる。弟の命は弟だけの問題ではなく、自分自身の問題でもある。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、同胞にも責任を感じる。
 責任は、愛の第三の要素、すなわち尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。尊敬は恐怖や畏怖とはちがう。尊敬とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊敬とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。[・・・]私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。いうまでもなく、自分が独立していなければ、人を尊敬することはできない。
 人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない。その人に関する知識によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。いっぽう知識も、気づかいが動機でなければ、むなしい。[・・・]愛の一側面としての知識は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

pp. 194-197
 私たちの社会では、愛とふつうの世俗的生活とは根本的に両立しない、と考えている人たちもいる。そういう人たちは、現代において愛について語ることは全般的な欺瞞に加担することでしかない、と主張する。さらにまた、現代社会において人を愛することができるのは殉教者か狂人だけだ、したがって、愛についての議論はすべて説教以外の何ものでもない、と主張する。まことに立派な意見だが、こういう考えはシニシズムを合理化することになる。実際のところ、一般の人びともひそかにそのように考えている。彼らは、「よきキリスト教徒でありたいが、本気でそうなろうと思うなら、餓死するほかはない」と思っている。この「急進主義」は、結局は道徳的ニヒリズムに陥る。「急進的な思想家」も、一般の人びとも、愛することのできないロボットであり、両者の唯一のちがいは、一般の人びとはそれに気づいていないのに対し、思想家はそれを知っており、この事実が「歴史的に必然」であることを認識しているという点である。
 愛と「正常な」生活とは絶対に両立しないという主張は、抽象的な意味でしか正しくない。たしかに資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない。しかし、現代社会を冷静に見てみると、それが複雑な現象であることがわかる。たとえば、実際には役に立たない商品を売りあるくセールスマンは、嘘をつかなければ利益をあげることができないが、熟練労働者や化学者や医者は嘘をつく必要がない。同様に、農民、労働者、教師、その他さまざまな種類のビジネスマンは、仕事をやめなくとも、愛の習練を積むことができる。資本主義の原理が愛の原理と両立しないことは確かだとしても、「資本主義」それ自体が複雑で、その構造はたえず変化しており、いまなお、非同調や個人の自由裁量をかなり許容していることも、認めなければならない。
 しかし、だからといって、現在のような社会システムは永遠に続くだろう、とか、現在の社会システムはやがて理想的な兄弟愛を生むことになるだろう、などと言うつもりは毛頭ない。現在のようなシステムのもとで、人を愛することのできる人は、当然、例外的な存在である。現在の西洋社会においては、愛はしょせん二次的な現象である。それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているために、非同調者だけがそれにたいしてうまく身を守ることができるからである。したがって、愛のことを真剣に考え、愛こそが、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の理にかなった答えである、と考えている人びとは、次のような結論に行き着くはずだ。すなわち、愛が、きわめて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。
 その変化の方向については、本書ではほのめかすことしかできない。[・・・]
 人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。[・・・]人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。

この本を読みながら、あるいは読み終えて、頭に浮かんだ引用。

「現代の世界のなかで、[・・・]誰も信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎ[=愛の働き、神、イエス]のあとを愚直について行きたいのです。」
 ―遠藤周作

「人類すべてに対する愛に溢れていても、対象が具体的になればなるほど愛することは難しくなる」みたいな(うろ覚え)
 ―ドストエフスキー

人に馬鹿にされても、偽善だと非難されても、論理的に破綻していると言われたとしても(誰よりも自分がそれをわかっていても)、愚直に「愛ある人として」(これが中学・高校のスローガンみたいなのだった)生きることが、やっぱりわたしにとっての理想の生なんだろうなと思う。

愛についての考え方も、相対主義も、高校の時と比べて深まりはしても結局のところ何も変化していない。大学で勉強したら、何かもっと明確な答えが見つかるのだろうと思ってたけど、今のところ余計にわからなくなる一方だ。「大学でたくさん勉強しました」なんてまだまだ(というかおそらく一生)口が裂けても言えないけれど、答えが見つからないのは勉強不足のせいなのか、どうなのか。。

2 comments:

  1. ポストをざっと読んで、少なくともポストに書かれている内容を僕が解釈した上では、この日記に書かれてることと僕が考えまた一部を書きもしていることとが、とても似通ってるっていうことを、感じるけれども、でもただそれだけやっていう、寂寥感に耐えられません。似通っていると感じる瞬間の嬉しさが一方、その先にはしかしなにもないっていう現実が一方。同じ場所に問題を感じ、同じような解決を結論しまた結論しないでいると同時に、そういう全部を共有したところでそれらの問題への取り組みには何の一助にもならないっていう無力感。現実の問題は、そういう共有性とか共同性とかを通り越して絶望的やっていうことの感覚的認知なんかもしれません。

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  2. ですね。
    そもそもこういうことを言葉にすることって、漠然とした共感以上のものを目的とし得ないんじゃないか、と思う。

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