Sunday, June 21, 2009

仏検

準2級受けてきた。
試験後に配られた模範解答で自己採点したら、98/100点。
初めてだからちょっとひよって準2級にしたけど、蓋を開けてみたらなんか余裕すぎて受験料損した気分。

まあ今回は、自分のフラ語力が客観的にどのレベルなのかがある程度わかったのでよしとします。
とはいえこの程度じゃ日常生活はsurviveできてもきっとビジネスとかには使えないからなあ。付加価値低いなあ。学生のうちにもっと頑張りたいものです。

なにはともあれこんな戯言を言えるのもトーゴでの生活があったからだわ、今さら言うまでもないけど。1,2年生の頃のフラ語の授業でのわたしのダメっぷり(というかそもそも出席が・・・)に比べたら目覚ましい進歩を遂げたと言えるでしょう。(目覚ましい進歩の後がこれ?っていう指摘は聞こえないふりをすることにします:P)

ところで仏検の運営は今まで受けたり試験監督のバイトした語学試験の中でいちばんしっかりしてた気がする。郵便で届いた受験票には受験地だけでなく建物と部屋番号も書いてあったし、当日は解答用紙に既に名前とか受験番号とか書いてマークしてあったし、試験後には模範解答配ってくれるし、試験官の指示とかソフト面の運営も問題なかったし。

唯一気になったのは試験官の学生バイトと思われる男の子のスーツがだぶだぶかつベルトがカラフルすぎたことぐらいだ。

Friday, June 19, 2009

愛するということ

エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991

pp. 48-52
 愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。
 [・・・]愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
 [・・・]配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。[・・・]愛する心をもつ人は求めに応じる。弟の命は弟だけの問題ではなく、自分自身の問題でもある。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、同胞にも責任を感じる。
 責任は、愛の第三の要素、すなわち尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。尊敬は恐怖や畏怖とはちがう。尊敬とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊敬とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。[・・・]私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。いうまでもなく、自分が独立していなければ、人を尊敬することはできない。
 人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない。その人に関する知識によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。いっぽう知識も、気づかいが動機でなければ、むなしい。[・・・]愛の一側面としての知識は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

pp. 194-197
 私たちの社会では、愛とふつうの世俗的生活とは根本的に両立しない、と考えている人たちもいる。そういう人たちは、現代において愛について語ることは全般的な欺瞞に加担することでしかない、と主張する。さらにまた、現代社会において人を愛することができるのは殉教者か狂人だけだ、したがって、愛についての議論はすべて説教以外の何ものでもない、と主張する。まことに立派な意見だが、こういう考えはシニシズムを合理化することになる。実際のところ、一般の人びともひそかにそのように考えている。彼らは、「よきキリスト教徒でありたいが、本気でそうなろうと思うなら、餓死するほかはない」と思っている。この「急進主義」は、結局は道徳的ニヒリズムに陥る。「急進的な思想家」も、一般の人びとも、愛することのできないロボットであり、両者の唯一のちがいは、一般の人びとはそれに気づいていないのに対し、思想家はそれを知っており、この事実が「歴史的に必然」であることを認識しているという点である。
 愛と「正常な」生活とは絶対に両立しないという主張は、抽象的な意味でしか正しくない。たしかに資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない。しかし、現代社会を冷静に見てみると、それが複雑な現象であることがわかる。たとえば、実際には役に立たない商品を売りあるくセールスマンは、嘘をつかなければ利益をあげることができないが、熟練労働者や化学者や医者は嘘をつく必要がない。同様に、農民、労働者、教師、その他さまざまな種類のビジネスマンは、仕事をやめなくとも、愛の習練を積むことができる。資本主義の原理が愛の原理と両立しないことは確かだとしても、「資本主義」それ自体が複雑で、その構造はたえず変化しており、いまなお、非同調や個人の自由裁量をかなり許容していることも、認めなければならない。
 しかし、だからといって、現在のような社会システムは永遠に続くだろう、とか、現在の社会システムはやがて理想的な兄弟愛を生むことになるだろう、などと言うつもりは毛頭ない。現在のようなシステムのもとで、人を愛することのできる人は、当然、例外的な存在である。現在の西洋社会においては、愛はしょせん二次的な現象である。それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているために、非同調者だけがそれにたいしてうまく身を守ることができるからである。したがって、愛のことを真剣に考え、愛こそが、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の理にかなった答えである、と考えている人びとは、次のような結論に行き着くはずだ。すなわち、愛が、きわめて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。
 その変化の方向については、本書ではほのめかすことしかできない。[・・・]
 人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。[・・・]人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。

この本を読みながら、あるいは読み終えて、頭に浮かんだ引用。

「現代の世界のなかで、[・・・]誰も信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎ[=愛の働き、神、イエス]のあとを愚直について行きたいのです。」
 ―遠藤周作

「人類すべてに対する愛に溢れていても、対象が具体的になればなるほど愛することは難しくなる」みたいな(うろ覚え)
 ―ドストエフスキー

人に馬鹿にされても、偽善だと非難されても、論理的に破綻していると言われたとしても(誰よりも自分がそれをわかっていても)、愚直に「愛ある人として」(これが中学・高校のスローガンみたいなのだった)生きることが、やっぱりわたしにとっての理想の生なんだろうなと思う。

愛についての考え方も、相対主義も、高校の時と比べて深まりはしても結局のところ何も変化していない。大学で勉強したら、何かもっと明確な答えが見つかるのだろうと思ってたけど、今のところ余計にわからなくなる一方だ。「大学でたくさん勉強しました」なんてまだまだ(というかおそらく一生)口が裂けても言えないけれど、答えが見つからないのは勉強不足のせいなのか、どうなのか。。

Monday, June 15, 2009

ロゴス、絶望

他者とのコミュニケーションを志向して、ロゴスを使っているはずなのに、
ロゴスに忠実になればなるほど、他者とのコミュニケーションは難しいものになっていく。

ロゴスを突き詰めていった先には、相対化の自己増殖という、ロゴスの循環的な矛盾構造しか残らない。
循環には、最終地点すなわち結論は存在しない。価値を決めること、立場を決めること、何を言うこともできない。
ロゴスの循環構造という破綻の先には、他者とのコミュニケーションの不可能性しか残らない。

社会で生きていくためには、どこかで思考を停止し、妥協しなければいけないのだろう。
そうやって「みんな」生きているんだろう。
でも、相対化の自己増殖は、自己増殖である以上、一度始まったら止めることはできない。

「そういう話、好きだね」
好きなんかじゃない。わたしだって、こんな生産性のない、破壊的ですらある思考は、止められるものなら止めたい。しかしそれは、わたしが望むと望まざるとに関わらず、自動的に、いとも簡単に、発生してしまうのだ。

ロゴスに忠実になることを諦めることでしか生き得ない世の中で、「論理的思考力」が評価されているというのはどういうことなのだ?
「論理的思考力」なんて、決して論理的などではない。

世の中なんて、茶番だ。
社会なんて、茶番だ。
近代なんて、糞食らえだ。社会は依然として、「近代」に支配されている。

思考停止という妥協によってしか生きていけないとは、なんて哀しい、苦しい、世の中だろう。

どうやって生きていけばいいのか、まったくわからない。わかるわけがない。

問題は、ロゴスしか他者とのコミュニケーションの、否、思考すること、存在することそのものの、手段がないことだ。
ロゴスの否定は、共存在としての人間存在そのものの否定だ。存在することも、だがしかし死を選ぶことも、許されない。
ロゴスを否定することすら、ロゴスなしではできないとは、なんとアイロニカルなことだろう。
ロゴスに支配されてしまう自分の、弱さ、と呼ぶことすらできない、弱さ、と呼ぶことすら(ry

それでも共存在という不幸な、根源的な他者への渇望はそこにあって、その先の不可能性と絶望に慄きながら、こうしてロゴスを紡いでしまう。

Wednesday, June 10, 2009

My Blueberry Nights

ウォン・カーウァイ監督、2007年

Jude Lawがかっこよすぎた。
ストーリーはいまいち。

Monday, June 8, 2009

価値

相対化の自己増殖から抜け出せそうにない身としては、「価値」なんて言葉を使うのにはちょっと抵抗がなくもないのですが。まあ今夜は(今夜「も」?)妥協します。


今日、トーゴでの研修先のCILSIDAから、メールが届きました。
2008年度の活動報告書の英訳版が添付されて。

そもそもなんで仏語のドキュメントを英訳する必要があるかと言うと、より多くの(つまり、仏語圏以外の)潜在的ドナーにリーチアウトするため。
プ ロジェクトを回すには、資金が必要。そして、資金源の大部分を占めるのは先進国のドナー(ちなみにCILSIDAは2008年度は、UNICEFと Fondation de Franceという2団体からかなりの額をもらっていました)だから、より多くの潜在的ドナーに接触することは、より多くの活動資金を得、活動の可能性の 範囲を広げることにつながります。
(そうやってNGOを隠れ蓑にして得たお金を私利私欲のために遣う人が、わたしがひとつめの研修先JADIなどで実際に見たように、また伊勢﨑賢治が書いているように、ものすごく多いのも事実ですが。。。)

CILSIDAの人たちは、というか一般的にトーゴ人は一部のインテリ層という例外を除いてみんな英語があまりできないから、仏語のドキュメントの英訳は、わたしがトーゴにいる間はわたしの仕事でした(わたしだってそんなに英語が完璧なわけじゃないけど)。

でも、じゃあ、わたしがいなくなった後はどうする?

彼らに書類が書けるレベルの英語力を身につけさせるというのは、わたしがCILSIDAにいた2ヶ月半では到底無理なこと。
そこで考えたのが、アメリカの大学に行っている友達がサークル活動みたいなのでやっている、無料翻訳サービスを紹介することでした。

わたしがトーゴを離れた直後に彼らが連絡を取り合っていたのは知っていたけれど、その後はあまり連絡が来なかったから、最近は立ち消えになっちゃったのかもしれないなあ、なんてぼんやり思っていました。

そんな中に来たのが今日のメール。
ちゃんと、今も続いてるんだということがわかって、ちょっと嬉しかった。


半年間(CILSIDAは2ヶ月半)という期間の中で、わたしにできることは本当に限られていました。というか、こんな短期間で「成果」を求めることは、逆にたぶんあまり彼らのためにならないんじゃないかな、という気がしていました。

そんな中で、わたしがトーゴでの研修中に常に念頭に置こうと思っていたこと:
・わたしにしかできないことをする(彼らにできる仕事を横取りしない)
・わたしがいなくなっても続くことをする(一発打ち上げイベントはしない)

CILSIDAではこの二点にあてはまるものもあてはまらないものもいろいろやったけれど、上の翻訳の話と似たようなことがもうひとつあって、それはトーゴにいる日本のNGOにCILSIDAを紹介したこと。

そ のNGOとCILSIDAは今でもつながりがあって、というかわたしが去った後さらに仲良くなったみたいで、CILSIDAはそのNGOから定期的に孤児 たちのための文房具や古着をもらっています。(そもそもこういう「援助」の仕方ってどうなの、という疑問は残りつつも・・・)

わたしが CILSIDAでやったことって全然大したものではなかったけれど、こうやって今もあの時がきっかけで何かが続いてるって思うと、あの研修では、わたしが たくさんのことを学ばせてもらっただけではなくて、彼らの為にもささやかな価値を出せたのかなあ、と思ったりした日曜日でした。
あとは、翻訳やってたりトーゴでNGOやってたりする人との、奇跡のような幸運な出会いに感謝。人とのつながりって、本当にすごい。

三回忌

人生って、うまくいかないことや理不尽なことや悲しいことやつらいことがいっぱいある。
でも、自分のそばに、心から信頼できて、寄り添い合える人がいてくれたら、「いろいろあるけど人生っていいな」って、思える気がする。

Saturday, June 6, 2009

ダージリン急行

The Darjeeling Limited
ウェス・アンダーソン監督、2007年

すごいおもしろかった。
こういう物語の紡ぎ方、すき。

批判は言葉にしやすいけれど、
「すき」を言葉で説明するのは難しい。

Tuesday, June 2, 2009

なまえとつながり

今日の西洋倫理思想史の授業は、最高にアツかった。
わたしがこの間のポストで書いていたこと、考えていたことにドンピシャだった。
「そう、それ!!!!!」って感覚。

授業の内容は、ハイデガーを中心に、前後の思想家の思想を概観するというもの。
具体的には、ベルクソン、ハイデガー、レーヴィット、レヴィナスの4人で、今日はレーヴィット。

レーヴィットのハイデガー批判の中で、なまえ(固有名Eigenname; proper name)について。
Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen, 第3節

両親が子どものためにわざと、歴史的にまったく負荷を負っていない呼び名、その子のみに帰属して、他のいかなる者にも帰属しない呼び名を選んだとしよう。その場合であっても、子どもが以後その名を身に帯びることになるのは、けっしてじぶん自身のためではなく、他者たちのためである。つまりその名は、他者たちによって呼ばれうるためのもの、他者たちのまえでじぶんを証明しうるためのもの、他者たちのために署名しうるための或るものなのである。[中略]いわゆる固有名とは、かくしてふたつの意味で他者の名である。さしあたり他者たちから与えられたものとしても、他者たちのためにさだめられたものとしても、他者のなまえなのである。

さらに、レーヴィットがフォイエルバッハの評価から引き出した2つの主題。
感覚主義Sensualismus:身体性、感受性に根ざすこと
他者中心主義Altruismus:デカルト的なegoにとって、他者は必要条件(conditio essendi)であること

●ひとが自己を「じぶん」と認識することの前提には、必然的に他者の存在があるということ。
●それから、身体性(これって、ハイデガーの「情状性」とどう違うのか、まだいまいちわからないけど)。

前者について、わたしはこの前のポストで、
「他者から自分が生きていることを認められなければ、もはや、「生」と「死」という区別さえ無意味なのだ。」
「他者とのつながりなんてなければ、名前なんていらない。他者が自分の存在を認めていて、合意が存在していなければ、「正しい」名前なんてない。」
と書いた。
少なくともわたしの解釈では、レーヴィットの言ってることはわたしの考えてたこととつながっている。

後者についても、おこがましさを覚悟でわたし自身の思考に即して言えば、
「自分で体験してみなきゃわからないことがある」
ってことになる。どれだけ正確な解釈ができてるかはわからないけど・・・。

***

本を読んだり、授業に出ていると、時々この「そう、それ!!!!!」って感覚が来る。
わたしの中のリアルな(つまり、西谷啓治の言うところの体得的な)問題意識や断片的な思考が、電撃的な感動と共に、つながる瞬間。

もっと勉強していくと、こういう「つながり」がどんどん増えていくんだろうな。
自分が脱構築と再構築を繰り返していく中で、「つながり」という解釈を導き出す土壌がつくられてゆく。

こういう時、勉強って、本当に楽しいと心から思える。