Tuesday, June 2, 2009

なまえとつながり

今日の西洋倫理思想史の授業は、最高にアツかった。
わたしがこの間のポストで書いていたこと、考えていたことにドンピシャだった。
「そう、それ!!!!!」って感覚。

授業の内容は、ハイデガーを中心に、前後の思想家の思想を概観するというもの。
具体的には、ベルクソン、ハイデガー、レーヴィット、レヴィナスの4人で、今日はレーヴィット。

レーヴィットのハイデガー批判の中で、なまえ(固有名Eigenname; proper name)について。
Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen, 第3節

両親が子どものためにわざと、歴史的にまったく負荷を負っていない呼び名、その子のみに帰属して、他のいかなる者にも帰属しない呼び名を選んだとしよう。その場合であっても、子どもが以後その名を身に帯びることになるのは、けっしてじぶん自身のためではなく、他者たちのためである。つまりその名は、他者たちによって呼ばれうるためのもの、他者たちのまえでじぶんを証明しうるためのもの、他者たちのために署名しうるための或るものなのである。[中略]いわゆる固有名とは、かくしてふたつの意味で他者の名である。さしあたり他者たちから与えられたものとしても、他者たちのためにさだめられたものとしても、他者のなまえなのである。

さらに、レーヴィットがフォイエルバッハの評価から引き出した2つの主題。
感覚主義Sensualismus:身体性、感受性に根ざすこと
他者中心主義Altruismus:デカルト的なegoにとって、他者は必要条件(conditio essendi)であること

●ひとが自己を「じぶん」と認識することの前提には、必然的に他者の存在があるということ。
●それから、身体性(これって、ハイデガーの「情状性」とどう違うのか、まだいまいちわからないけど)。

前者について、わたしはこの前のポストで、
「他者から自分が生きていることを認められなければ、もはや、「生」と「死」という区別さえ無意味なのだ。」
「他者とのつながりなんてなければ、名前なんていらない。他者が自分の存在を認めていて、合意が存在していなければ、「正しい」名前なんてない。」
と書いた。
少なくともわたしの解釈では、レーヴィットの言ってることはわたしの考えてたこととつながっている。

後者についても、おこがましさを覚悟でわたし自身の思考に即して言えば、
「自分で体験してみなきゃわからないことがある」
ってことになる。どれだけ正確な解釈ができてるかはわからないけど・・・。

***

本を読んだり、授業に出ていると、時々この「そう、それ!!!!!」って感覚が来る。
わたしの中のリアルな(つまり、西谷啓治の言うところの体得的な)問題意識や断片的な思考が、電撃的な感動と共に、つながる瞬間。

もっと勉強していくと、こういう「つながり」がどんどん増えていくんだろうな。
自分が脱構築と再構築を繰り返していく中で、「つながり」という解釈を導き出す土壌がつくられてゆく。

こういう時、勉強って、本当に楽しいと心から思える。

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