Thursday, January 28, 2010

あまりにも残酷な

ただ生きているというだけで、意図せずとも、誰かを傷つけてしまう。

そんなにも、残酷さを背負った存在なのに。

それなのに、それには飽き足らずに、故意に人を傷つける。

欲望や欲求にかられた刹那に、いとも簡単に相手の心を踏みにじる。


なんという、あまりにも残酷な --


そんな自己嫌悪は、自分で自分につけた傷を舐めることはできても、他の誰かの傷を癒すことはできない。


"He that is without sin among you, let him first cast a stone at her." --John 8:7


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原罪」--surrender 2008.02.28


人間は、その本質において不完全であるが故にその存在自体が罪である。

――というのが最近わたしが辿り着いた実感としての「原罪」"the original sin"です。

つまりどういうことかを端的にいうと、人間は全知全能にはなりえない。知らないが故に人を傷つけてしまうことってあると思うのです。

たとえば、苦しみというのは当事者にとっては個別的である。でも、それが第三者にとってみれば一般化されたものにすぎない。
たとえば、「お母さんのいない人」とか、「事故に遭った人」とか。母親がいないということによって起こるさまざまなこと(both good and bad)は、その本人にとってはその本人だけに分かり得るものであって。それを「だから~~な人は・・・」と言って一般化してしまうことで、本人の苦しみへの理解の道は発言者の意図せざるところで閉ざされてしまう。それは時に本人にとっては突き放されたような孤独感を与える。
つまり、意図していなくても気づかないうちに人を傷つけていることがある。これが端的に言う、「知らないが故の罪」だと思うのです。

で、だからといってすべてを知るということが可能かと言うと、人間は時空という制約の中で生きている以上不可能なわけで。だから「すべてを知りえない」ということは、人間が本質的に持つ罪、すなわち原罪だと思うのです。


ところで、言わずもがなだけど、その認識の前提には「神」の存在がある。
なぜなら、完全なる者(=神)との比較においてでなければ、不完全という属性は出て来得ない。

説明というのは必ず他との比較の中でしか成り立たないのではないか。
「人間」という抽象的な概念を説明する時に、ありのままを言葉で描写することなどできない。それは言葉というものの、差異を作り出すという性質による。

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(ちなみに、大変お恥ずかしいことに、知り合いのカトリック神学生にこの話をしたら、これは「原罪」とは言わないそうです。原罪じゃなくて、なんとかっていう用語がちゃんとあるそうなんだけど、忘れちゃった。そしてこういう議論は神学の中でいろいろとされ尽くしているらしい。。それに読み返してみるとちょっと論理的に弱い点もある気がしますね。でもこれは今日の本題じゃないからまあいいや。ちなみに私はクリスチャンではないですよ、念のため)


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