Monday, January 11, 2010

出す

時々、ただ、「出す」という行為がしたくなる時がある。

伝わらなくていい。むしろはじめから誰に向けられたものでもない。反応もいらない。

それは、時に、涙。
時に、言葉。
時に、言葉にならない叫び声。
時に、壁に思いっきりぶつけてみる拳。
時に、深い深い溜息。

それが言葉のときは、対象は何でもいい。ブログやtwitterやfacebookに書く。誰にも秘密のアナログ日記に書く。ノートの端っこに書く。結露した窓に書く。書けない時は、声に出してつぶやくだけでもいい。
流れる涙も、溢れ出る言葉も、迸るエネルギーも、それが残っても残らなくても、誰が見ても見なくても、問題ではない。(現実には、残らない方が都合がよいことも多い)

ただ、「出す」というそれだけ。

あたかも、感情や衝動などと一般的に称される(けれども本当はうまく言葉にはできない)何物かが、脳内の化学反応だけでなくてれっきとした固体なり液体なりの実体として存在し、それを掬いあげて自分という枠の外に投げ捨てることができるかのように。

出すことによって自分の外部には何の変化も起こらない(もちろん、自分の周りの空気が振動したとか、目に見えない微生物が死んでしまったとか、ペンのインクが減ったとか、そういう意味では変化は起こりうるけれども)。

それなのに、ただ「出す」というそれだけのことで、自分の中の気持ちがすごく、ものすごく、楽になる時がある。

こんな時(だけ)は、「ことば」があってよかったと心から思う。
ことばが他者と共に生きるためにあるものだとしたら、結局のところ自分こそが他者なのかもしれない(もちろん、ことばの存在意義の方を疑うことも可能ではあるけれど)。

このポストだって、こうして言葉にした時点である意味目的は達成されていて、もはやpublishボタンを押しても押さなくても変わりはない。実際そうやって消えていった言葉たちは今までに数知れない。今回は単なる手続きとしてpublishすることにするけれど。(注:このブログの全てのポストがこういう系なわけじゃありませんっ ちゃんと読み手に伝えたくて書いてる時が殆どなので、今後ともよろしくお願いします笑)

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