Friday, January 15, 2010

違和感

ハイチのことを考えていました。

今日は、ネットでハイチに関するニュースや援助情報を見て、ぼーっとハイチのことを考えて、それで1日が終わってしまった。

今までも世界のいろんなところで大きな自然災害が起きているのに、なんで今回はこんなに頭がoccupyされたのかは、よくわからない。
世界一周やトーゴから帰ってきて何かが変わったのかも。Twitter効果かも。ただ単にPMSだからかも。
とにかく理由はわからない。

「心を痛める」と言うのなら、本当に「心を痛め」ているのなら、どうして普段通りの生活ができるだろう。電気もあってネットもある快適な部屋の中でぬくぬくして、それで「ああ、かわいそう」と一瞬胸が締め付けられるような思いになって、1分後には「ご飯何食べようかなあ」なんて、そんなことってしていいんだろうか。
くだらない極論と一蹴されるかもしれないけれど、他者の苦しみに共感するって、究極的にはそういうことだと思う。

じゃあ、今すぐ現地に飛んで行って、「何もできないけど共に苦しみを背負うことならできる」という私の心の支えであるはずだった『深い河』のフレーズを言いながら、彼らと共に傷つき涙を流せばそれでいい、というわけでもないだろう。

結局、私は無力な偽善者なのだ。

寄付をした。
トーゴで半年間過ごしてから、極度に懐疑的になった「あげる」という行為を、他に何もできない私は選択した。もちろん開発と緊急援助は違う。違うけど、じゃあ本当に緊急援助の場合だったらいいのかというと、よくわからない。いいような気もするけど、よくわからない。
本当にいいかわからない、もしかしたら悪いかもしれないというリスクを背負って行動することと、そのリスクを回避するために何も行動しないこと、という選択肢の中で、わたしは前者を選択した。

今まで信じていたものをことごとくぶち壊すことになった、トーゴでの経験。世界が180度回転したと言ってもいいような、あの経験。そこで感じるようになった世界のあらゆるものごとに対する強烈な違和感を忘れずに、しっかりと向き合っていこうとだけは思っている。
何も知らないふりをして「善意」だからと言い訳をして、本当に相手のことを考えられないようになってしまうことだけは、あの半年を過ごした以上、もうできない。
葛藤と向き合うことと行動を起こすことのバランスは、難しい。

やっぱり私は無力だし、偽善者なのだ。
無力なくせにこんな思考をしていること自体、ハイチの人たちの苦しみや悲しみを冒涜的に消費しているに過ぎない。
そんな人間が語ることは、果たしてできるんだろうか。

だから!
私は語れるようになりたい。
他者の苦しみを消費するのではなくて、真に取り除ける人間になりたい。
・・・理想と現実の間には、とてつもない溝があるけれど。。

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