他者とのコミュニケーションを志向して、ロゴスを使っているはずなのに、
ロゴスに忠実になればなるほど、他者とのコミュニケーションは難しいものになっていく。
ロゴスを突き詰めていった先には、相対化の自己増殖という、ロゴスの循環的な矛盾構造しか残らない。
循環には、最終地点すなわち結論は存在しない。価値を決めること、立場を決めること、何を言うこともできない。
ロゴスの循環構造という破綻の先には、他者とのコミュニケーションの不可能性しか残らない。
社会で生きていくためには、どこかで思考を停止し、妥協しなければいけないのだろう。
そうやって「みんな」生きているんだろう。
でも、相対化の自己増殖は、自己増殖である以上、一度始まったら止めることはできない。
「そういう話、好きだね」
好きなんかじゃない。わたしだって、こんな生産性のない、破壊的ですらある思考は、止められるものなら止めたい。しかしそれは、わたしが望むと望まざるとに関わらず、自動的に、いとも簡単に、発生してしまうのだ。
ロゴスに忠実になることを諦めることでしか生き得ない世の中で、「論理的思考力」が評価されているというのはどういうことなのだ?
「論理的思考力」なんて、決して論理的などではない。
世の中なんて、茶番だ。
社会なんて、茶番だ。
近代なんて、糞食らえだ。社会は依然として、「近代」に支配されている。
思考停止という妥協によってしか生きていけないとは、なんて哀しい、苦しい、世の中だろう。
どうやって生きていけばいいのか、まったくわからない。わかるわけがない。
問題は、ロゴスしか他者とのコミュニケーションの、否、思考すること、存在することそのものの、手段がないことだ。
ロゴスの否定は、共存在としての人間存在そのものの否定だ。存在することも、だがしかし死を選ぶことも、許されない。
ロゴスを否定することすら、ロゴスなしではできないとは、なんとアイロニカルなことだろう。
ロゴスに支配されてしまう自分の、弱さ、と呼ぶことすらできない、弱さ、と呼ぶことすら(ry
それでも共存在という不幸な、根源的な他者への渇望はそこにあって、その先の不可能性と絶望に慄きながら、こうしてロゴスを紡いでしまう。
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