Monday, May 4, 2009

死者の存在

夢で死者と会話したという話。

古今東西、死者が夢の中に現われて、夢を見ている本人に何かしらのメッセージを伝えたという話は珍しくない、気がする。
母も、兄を流産した時に、亡くなった姑(わたしの父方の祖母)が夢の中に現われて、彼女を励ましてくれたらしい。

それを自身で体験していない周囲の人の中は、おそらく、本人の脳の中で特殊な反応が起こったからだとか、意識あるいは無意識の産物だとか、あるいは中沢新一が『カイエ・ソバージュ』で書いていたような仕方で説明する人も多いだろう。

でも、それを体験した本人にとっては、まぎれもない「リアル」であるに違いない。

死者は本当にその人のところに現われたのだろうか?
つまり、死者の霊みたいなものって本当に存在するのだろうか?

それは、わたしにはわからない。
わたしにはそういう経験がないから、どちらかというと脳内現象みたいな前者の説明の方が抵抗なく受け入れられるけれど、でも、今後もしそういうとてつもなく衝撃的なリアルな体験をしたら、霊の存在を信じて疑わなくなる可能性だって十分にある。

とにかく今はわからない。
わからないけれど、でも少なくとも、この「死者が現われる」という事象には、人間がいつまで経っても克服することのできない「死」へのどうしようもない受容不可能性、みたいなものが表れている気がする。

「死」ということは「無」を意味する。
とすれば、「死者」の霊が「存在する」ということはそもそも語義矛盾を孕んでいる。
死者はもう跡形もなく消え去ったもののはずだから。

人間は、きっと、「無」に耐えられない。
だから、「この世」の命あるいは「肉体」が無くなっても、「いのち」そのものとか「魂」は存続するという言説を、いろんな形で生み出してきたんだと思う。

それは世界中の文明を見てもそうだし(祖先祭祀や、霊の存在、永遠の命への信仰などなど)、もっと身近なところでは、死にゆく人が「わたしのこと忘れないでね」と言うことだって、ある意味での自己保存の欲求、無への抵抗と言えると思う。

***
ただ、「死」は「無」であるというのは、もしかしたらそれほど自明のことではないかもしれない。

それが顕著に表れるのは、死体を前にした時。
目の前に横たわっているこの人は死んでいる、でも、ここに存在している。
この体はもはや単なるモノに過ぎないのか、それともそれ以上の何かなのか。

そもそも「なくなる」ってどういうことなのか?

もしかしたら、生と死の境目は、思うよりももっとグラデーション的で曖昧なものなのかもしれない。

***
生き残った者が死に意味づけを与えることは容易い。

いろんな意味づけのための言説に対して、死者に敬意を払っているとか、死者を冒涜しているだとか、そういった意味づけの意味づけをすることも容易い。

だけど、それは、決して死者のための意味づけなんかではない。
遺された者たちが、喪失の痛みや死への恐怖を隠蔽するために作りだした言説にすぎない。
のではないかしら。
だって、どんな意味づけを与えてみたところで、その対象の「死者」はいないんだもの。

アリエスは死への対峙の仕方をいろいろに分類したけれど、それでもやっぱりいつの時代も、根源的な死への恐怖や圧倒的な無力感は拭えていないのだと思う。

帰納的に理解された生においては、生と死は表裏一体で、どちらももう一方のraison d'êtreみたいな部分がある。
でもそれは一方向的で、一度死んでしまったら後戻りはできない。

だから、死を語ることはちょっと変な営為だ。
誰も自分の死を体験することはできない。他人の死を通してなんとなく死を疑似体験した気になったり、死をどう解釈しようかと悶々とすることしかできない。
わたしは「体験していないことは実感を持って語れない」と常々思うのだけれど、じゃあ、この死に対するわたしのポストだって、きっとどこか浮ついた、リアルさの欠けたものに過ぎないに違いない。

でも、やっぱりそういう形でしか、死への言説は成り立ちえない。
他者の死を自身の生に照らし、生を考えることしか、死への言説は成り立ちえない。

No comments:

Post a Comment